2011年03月03日

今年も

2011ちょびの季節.jpg



見かけてしまい、買ってしまいました。
咲いておりますよ、まぁ、見事に。




昨年のように“待ちわびる”ことなく、時が過ぎていたのですが、
見てしまうと、やはり、つい手が伸びるのはもう致し方なし。



相変わらず、三毛犬見ると、いつでもどこでも、もれなく、
おっ!っと反応してしまうのも致し方なし。

撫で撫でしてみるも、全く違う手触りに、(密かに)がっくしなのも致し方なし。
←いや、これだ!っつう手触りだったら、なんとしても拉致りかねないゆえ、
それはそれでかなりヤバい。



そしてそして、後ろに写る、モンステラ。
育て方をちょいと調べて、肥料などをやってみたら、
あらまぁ@@
ぐんぐん、お育ちになってしまわれましたよ@@


夏になったら、植え替えついでに、切り戻しして、
挿し木で鉢を増やしてみようかしらん?



確実に月日は流れたのだなぁ〜と静かに感じるこの頃です。






ちょびの執事時代にやりとりをさせて戴いたこともある、老犬介護仲間で、
ちょびより少し前に相棒を送った方が書いていらした一文を拝読して、
深く深く頷いた。


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『傷手の行方』

今日は素晴らしい快晴だった。

去年の今頃は●●がいなくなった事実を受け止める努力をしていた。
バイクに乗って気を紛らわすと言う事だけではなく、むしろそれを突き詰めて納得する努力だった。
身体を動かして事実に付随する悲しみをそぎ落とすようなことだろうか。
とにかく悲しかったし、それは辛かった。
そしていまはその事実は全てを納得して、自分の収めるべき場所にきちんと収まっている。
だから●●がいなくて寂しいが、悲しみはずっと少なくなった。
しかし何かにつれて、ふとあの感覚が呼び戻される。
具体的な悲しみではなく、悲しかった事実の感覚だけだ。
花の香りだったり、陽の光だったり、それが作る影だったり・・・、それが引き金になる。
去年の今頃のあの辛さの感覚だけがまだ戻ってくる。

きっと来年の今頃になればこの感覚もずっと薄れていくんだろうな。

別離の傷手には2年の時間が必要と経験からもそう思う。
すかんと抜けた青空の下を走りながらそう思った。

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『突き詰めて納得する努力』
そう、まさに執事にとって、ちょび亡き後、預かりっこと過ごした時間は
ちょびがいないことを突き詰めて納得する時間だった。


『しかし何かにつれて、ふとあの感覚が呼び戻される』
そう、執事にもやっぱり、引き金は存在していて、
辛さの感覚は相変わらず襲ってくることはあったりもする。

お見送りの際のバーナーの音であったり、
百合の香りであったり、
甘えるでなく、媚びるでなく、そっと体を擦り寄せ、じぃーとこちらを見つめる瞳であったり、
咲き誇るしだれ梅の大木であったり、
シンと冷え切った真夜中の空気の中見上げる、月であったり。



そして、昨年までのなによりなによりの引き金は『桜』だった。
なのだけれど、今年は静かにこの花を愛でている自分に気づいた。







2年近くの時が流れ、やっとあの時に友が送ってくれた言葉が
しみとおってきた気がします。


VOCATUS ATQUE NON VOCATUS






ちょびのかけらを土に返した、あの樹が薄紅色に咲き誇る姿を
今年こそは笑顔で見上げられるだろうかと思いながら
蕾が膨らんできた樹を見上げています。


ニックネーム 執事 at 02:57| Comment(1) | TrackBack(0) | つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする